丸駒農園とは
創業76年。
駒千代が、桃の苗木を植えた…
昭和14年、曾祖父である駒千代が桃の苗木を植えたのが丸駒農園の始まりでした。
一時戦争の為桃畑が無くなりましたが昭和24年に再開し、
祖父・母と受け継ぎ4代目として農園を守っています。
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丸駒農園のはじまり
昭和19年、太平洋戦争が激しくなると桃の木は米・麦・芋への生産へと切り替えをやむなくされ、翌年には滑走路建設のため桃の木を伐採しました。(昭和20年5月に滑走路計画が持ち上がり、2か月かけて百合・新田。段地区に全長1500メートル幅100メートルの安楽川陸軍飛行場の滑走路が整地されました。整地されて間もなくの8月14日終戦を迎え、滑走路から1機も飛び立つ事はなく幕を閉じたのです。)
丹精込めて広めた段新田・百合地区の見事な桃の木を、切らなければならなかった悔しさはいかばかりだったでしょう。
それから後4年掛けて桃畑に戻し、昭和24年桃作りを再開しました。堅実な曾祖父の桃は、安楽川村の中でも「丸駒の桃は味が良い」と評判だったようです。駒千代はきっちりした人だと聞いています。かなり難しく、頑固だったようです。
仕事の最後はその日使った道具を気が済むまで磨き、なければ出てくるまで畑に探しに行ったそうです。駒千代より支えたサザエの方が大変だったと聞きます。 -
2代目 勝之の桃づくり
昭和37年、先代の駒千代から桃畑を受け継いだ5番目の息子である祖父勝之は、全ての畑に無人のクーラー防除を設置したり、マイナス2度まで下げる貯蔵庫を建てるなど、徐々に耕作面積も増やしていき4ヘクタールほどになりました。桃の時期には大量の桃を収穫選別するため、夜が明ける前から畑で明るくなるのを待って作業をしたり、一睡もしない日もありましたが、選果場でも知らない人が無いほど大きな農家へとなって行きました。
勝之は農業指導士としても、指導をしていました。気前の良い人柄で仲間も多かった様に思います。「農業は死ぬまで勉強や」と話していた通り、毎日畑を回り、木と対話をしていたようです。「木を毎日眺めてたらせんなん事(するべき事)が分かるんや」と話してました。 -
2代目から受け継がれた想い
55歳で亡くなった祖父の後を受けて母明美が農業を引き継ぎました。祖母と2人3脚で農業をしてきた母は「農業は楽しく、畑は職場」と話しています。4ヘクタールあった畑を130アールに減らし柑橘・田んぼをやめ、桃だけに力を注ぐようにしました。草生栽培を始め、乗用草刈り機・スピードスプレイヤーや、高所作業機等の機械を導入し、楽農に向けて動き出したのです。
また一方で桃を作るだけではなく、直接多くの方に届けたいと2002年にホームページを立ち上げて貰い直販を始めました。また、同時期に直売所もオープンしました。しばらくすると破棄する果物を使った加工品も作り始めました。作るだけの農業から、販売、加工と、丸駒農園の農業のあり方も変わってきました。
後に続くものが明るく楽しく農業が出来るようにしたい! -
これからの丸駒農園。そして...
2014年4代目として私、吉一が農園を引き継ぎました。桃の栽培方法にこだわって作っていきたいと思っています。
草生栽培に加え、肥料・堆肥・農薬等、桃に寄り添って、どんな栽培方法をすれば、のびのび枝葉を広げてくれるのか、木の声を聞きながら良い方法を確立していきたいと思います。